10月10日 「ペスタ終了 Just as long as you stand, stand by me」

 今年も素晴らしいステージの連続でした。感動と感激で何度も目頭を熱くしながら、日頃の学校生活とは全く違う姿を見せてくれる子ども達のすごさと、先生方の熱い想い。小さな体を精一杯使いながら、緊張と注目を浴びる快感を楽しむ子ども達を見ながら、こういった場にいられる自分の幸せをかみしめました。教員生活最後のペスタブンガラヤ、子ども達と先生方、そしてそれを応援してくださる保護者の皆様にただただ感謝です。教員になって本当に良かったなと思います。
 今年は、昔好きだった懐かしい歌を何度も聞くことができました。ジュリー・アンドリュースのOver the Rainbow、そしてあのStand by Me。虹の向こうには必ず幸せがあるという、バラ色の未来を予感させる古き良き時代と呼ばれるあの時代のアメリカ。映画の挿入歌として使われ、それぞれに傷つきながらも思春期の友情で支え合う少年達の想いを象徴する歌詞。Darlinは性別にかかわらずに使える言葉だと確信したのもあの映画でした。今は無きリバー・フェニックスのあの大人を見透かしたような純粋だけれどどこか陰がある瞳、遠く未来まで続くような線路、冒険の旅を終えてそれぞれの日常、家庭に一人ずつ戻っていくエンディング。誰もが経験するあの何とも言えない多感な時期を描いた記憶にのこる作品です。日本の「少年時代」は、戦争の暗い影がなんとも重い作品でしたが、Stand by Me は、いかにもアメリカという景色と家族の関係が印象的でした。
 できの良い兄を溺愛する親、それに対する弟のコンプレックスが日本人の私には分かりづらいのですが、ジェームス・ディーンの「エデンの東」に代表されるように、かの国では文学のテーマとして語られることが多いのも事実です。エリア・カザンにスティーブン・キング。詳しくは分かりませんが、案外原作者自身の中にある課題なのではないかと思ったりもします。
 I love you. を言葉で伝えられなければ、愛を感じとれない人達。私たち日本人が、この I love you. をいつも言葉で伝え続けたら、子ども達はどんな大人に成長するのでしょうか。「愛してるよ」はちょっと照れくさ過ぎますから、「大好きだよ」が良いんじゃないかと思います。
10月5日 「ペスタ○か×か」

 昨日、児童生徒向けのペスタが行われました。本番の予行演習的な意味合いもあるのですが、初めて練習で多くの観衆の注目を浴びる日でもあります。出番を待つ子ども達の緊張はそれはすごいものがありましたが、同時に物怖じしないというか、自信に溢れているというか、自分達の頃とは全然違うなあと思うような子達も沢山います。今でこそ仕事上の必要性から、人前でなんとか話すことはできますが、子どもの頃は人の前で何かを発表するなんて、自分にはとんでもなく恐ろしいことでした。緊張し、真っ赤になり、アタマが真っ白になって、どうしようも無くなり、そのまま退場なんて言うことを繰り返していましたから。ですから、舞台で輝く子ども達の姿を見ると、本当にすごいと感動します。日曜日にはそれぞれのドラマをしっかり演じきってほしいと思います。
 実はペスタについては、昨年からずっと考えていたことがありました。素晴らしい伝統なのですが、ものすごい時間とエネルギーを必要とします。現在の日本ではほとんど無くなったこの形態のいわゆる学芸会は、教育的観点からして本当に継続すべき価値や意味があるものなのか、もしくは意味のあるものとしての継続は可能なのか、それとも、次から次へと繰り返される教育改革の波に乗り遅れないよう、より先進的な取り組み等にその時間を充てるべきではないのか、という事です。
 何人かの方々との雑談のついでに、「ペスタなくしてみたらどうでしょうかね。」と軽くジャブを入れてみると、ほとんどの人が「そんなこと言ったら、保護者の人達が暴動をおこすよ。」と強烈なストレートを返して来ました。そうだろうなあと思いながら、思い出したのは母の思い出話しでした。私が小学生の低学年の頃の学芸会での事だそうです。苦労して衣装を縫い上げ、当日、次はいよいよ可愛い(?)息子の出番だという時に、家の舅と姑から自分達の大事な客が東京から来ているからすぐに帰って接待しろとの連絡が来たそうです。母親は泣きながら学校を後にしました。時代とは言え、今では考えられないことですが、その時の母の気持ちも辛かったろうと思います。「晴れ舞台」という言葉がありますが、子ども達にとってもそれぞれの保護者の方々にとっても、まさにペスタはその日なのですよね。
 認められる場としての「晴れ舞台」は、小さいけれど毎日の生活や授業の中にちりばめられていますが、ペスタのそれは華やかさと観衆の数が圧倒的に違うスーパー晴れ舞台といえるものです。そういった意味では時間とエネルギーをかける意味のあるものなのだと言えるのかも知れません。
 子ども達には、「ペスタをなくすなんて校長先生バカなんじゃないの」と言われそうで、怖くてまだ聞けずにいるのですが、そんな中、生徒会長のI君が、始業式の挨拶で自分たちがペスタを行う意義を弁舌爽やかに語ってくれました。わかりやすく、見事なお話だったのでペスタ当日に紹介させて頂きます。
10月1日 「どうでもいいんだけど」

 夏休みが終わり、東アジア校長会やらペスタの準備に追われて(追われているのは他の先生方だけでしょうの声あり)いるうちに9月が終わってしまいました。「簡単なことでも毎日続けられる事に1年間挑戦してみよう」「継続は力なり、ウサギも結局はカメにまけたのだ」みーんな自分が子ども達に話したことです。だから先生は嫌いだよという声が聞こえてきそうで、まずは反省。子どもに恥ずかしくない生活をしなければ、と思いますがこれもなんだか口だけみたいに聞こえてしまいそうで空しい気がします。
 さて今回は夏休み中に体験し、自分なりに考えたり、疑問に思ったことついて書いてみたいと思います。御察しのとおり子ども達の事は全く出てきませんので、悪しからず。
○ネットによる情報が多すぎて旅行が楽しくなくなった気がする。
 出発前から詳細な情報が得られ、行く前から何が不味くて、何がうまくて、失敗しないためにはどうすれば良いのかまで分かってしまう。情報による期待ばかりが大きくなって、行って見ると案外がっかりする事が多い。たまたま偶然に入った店が当たりだったとか、人に教えてもらった場所が最高だったなんていう感動がなくなった、代わりに失敗や間違いのない時間を過ごすことができる。道に迷うことなどなくなったが、いわゆる五感が働かなくなった。自分にとってはこれまでのような魅力的な旅は少なくなった気がする。
○ペナンの屋台の麺やビーフンは大抵オーバーボイルだが、みんな柔らかい麺が 好きなのか。 
 ワンタンミーを除いてまずほとんどがオーバーボイル。作るのに時間をかけないという点では間違いなく、湯がくだけの今の屋台方式は正解。たぶん麺に対する感覚と、すするということをあまりしない食べ方にあるのだろうと思う。まず麺に対しては、こちらの人には我々日本人が持つうどんやそば等に対する「こし」や「のど越し」という感覚は全くなさそうで、スープをかけて食べる炭水化物として扱われているような気がする。たまたまおじやのご飯が麺なのだという感じ。そこにすするという食べ方がないので、レンゲに載せてスープと一緒にもぐもぐと食べる、まさに食べるのだ。自分はラーメン風に食べたいので、ホッケンミーやカリーミーを食べるときは、イエローミーだけを指定し、湯がかずにそのままスープをかけてもらっている。熱湯で湯がかないのは衛生的には×であろうが、それを言い出したら屋台そのものが×だろう。それより問題なのは、屋台の叔父ちゃん叔母ちゃん(叔母ちゃんのほうが圧倒的に多い気がする)に、「なんだこのデブ、いちいちめんどくせーな」と嫌な顔をされることである。プラウティクス市場脇のホッケンミーのおばちゃんは顔を見ただけでイエローのビッグを湯がかずに出してくれるけど、ジャイアントの裏のスーパー○ッ○ン○ーは未だに「あー」と言っただけで睨まれる。
 こんな疑問を抱いているのは私だけではないはずである。今度是非、ガーニーの一風堂でローカルの人に替え玉で「バリ硬」を食べさせてみたい。